暮らしの変化と伝統技術の継承 

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暮らしの変化と伝統技術の継承

すでに「たらい舟職人養成講座」が修了し、この機会に従来の生業で必要とされていたたらい舟利用の現状と今後の課題について、一言述べてみたい。

まず心配なのは、たらい舟をつくるという職人技術が、現代のような文明社会のなかで継承され生かされていくものなのか、放置してはおけない不安があるということである。

全国でたらい舟を生業のなかで利用しているところは、佐渡の小木半島のほか四、五か所にすぎない。佐渡の近くでは、能登半島の内浦の海岸で、内海の静かな磯辺でたらい舟をつかっていた。日本海側では、ほとんど海の生業のなかで利用している例はなかった。外海の荒い海では、たらい舟をつかうことは適していないのである。しかし、小木半島では、相当の波のある状態でも操業をしている。

小木半島でたらい舟を磯舟のようにつかいだしたのは、明治中期ごろからである。たらい舟は、高速性と漁業効率を求める現代には適してはいない。たらい舟による漁は海況のよいときでないと操業できないのであるが、小木半島では、磯舟が出ないときでも操業をしている場面を何回か見ている。

おそらく、このようなたらい舟のつかい方をしている例は、よそにはないであろう。ここでたらい舟を磯漁に利用するようになったのは、いくつかの理由がある。

享和2(1802)年に、小木半島を中心に大きな地震が起きた。半島全体が1メートル余も隆起し、海底の海食台が水面にあらわれて、海岸は岩礁の出入が多い地形になり、狭くなった入り江は磯船の接岸には不便になった。そして、沖にあらわれた岩場(シマという)では、冬の岩海苔が取れるようになった。その岩海苔が特産になって、商品化されて海村の現金収入源になってきた。地元では、このシマに生えた岩海苔を採取するために、たらい舟をつかうことを発想したという話もある。

また、大きなたらいを海に浮かべて、ナギのよい海でワカメなどを採取することも、行なわれるようになった。宿根木という回船業をしていた村では、桶や樽を作る職人が多数いた。やがて、羽茂で味噌を北海道のほうへ販売するようになり、大きな樽を必要とした。たらい舟が「はんぎり」といわれているのは、大樽を半分に切ったからである。それをいろいろな用途に転用するようになった。

樽は柾目板をつかう桶とは違い、板目(中心をはずして板にしたもの)で作る。そうすると、水分は外側にもれてくることがなくなる。たらい舟は日常つかう桶とは異なり、樽職人の技でつくったものである。

もう1つ、近辺に材料が豊富にあるということがある。材料は杉と真竹である。たらい舟を磯漁につかったきっかけは、流れ寄ってきた大樽を利用してみたことがきっかけだともいう。いずれにしても、生活と生業との関係がつながっており、たらい舟技術の継承はこうした背景があった。
竹でタガ(板を外側から押える帯)を掛けることが、もっとも重要な技術である。この技術をもった職人は羽茂のほうに多く、冬場になると、小木半島の海村でタガを掛けて回っていた。本間勘次郎さんもこの経験があるという。タガを掛ける職人がいなくなったために、FRPという強化樹脂をたらい舟に巻いている。いまは磯漁で安心してつかうだけのたらい舟をつくることができなくなってきた。

 たらい舟にのって1本の棹をつかってカギやヤスで、海底にいるアワビや蛸を取ることは、若いときからの長い間の経験が必要である。生活の前提があって職人なども近くにいて、それを支えるという時代は過ぎているように思う。
平成13年秋から14年春まで、たらい舟の漁労技術の伝承事業として「たらい舟職人養成事業」が行なわれた。もう10年近く経過している。今回、伝承技術継承の緊急事業として行なわれたことは、たいへん喜ばしいことである。

佐藤利夫(さとう としお)

歴史家。昭和6年佐度島(旧新穂村)生まれ。同30年より佐渡島内の相川・佐渡・羽茂各高等学校教諭を務める。退職後、佐渡の歴史と民俗を後世に伝えるため調査研究を継続。著書に『はんぎり』、写真集『明治生まれ』、『くらしの四季』、『佐渡嶋誌』、『佐渡たんぼ』ほか多数

年末の冬ナギに
家族総出の海苔採り
昭和57年(1982)